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東日本大震災 #5

あの悪夢のような日から、もう11ヶ月。
来月には1年経過しようとしています。
当時の記憶を何とか掘り起こしながら、忘れてしまう前に記録として残しておきたいと書き始めましたが、なかなか書ききれません。
徐々に記憶も薄れてきているため、早く書かなきゃ

片付けの手伝いもせずに、出かけていた父が夕方戻ると、
「暗いな。電気点けるぞ。」というので、
「まだ、配線の確認できてないから、ブレーカー戻せない。こんな時に火事なっても消防車こないよ」
そういっても、ブレーカーを戻そうとする父を見かねて弟が、
「じゃあ、とりあえず家中のコンセント抜いて明かりをつけよう」
と言うので、弟と二人で家中のコンセントを抜いてから明かりを点けました。
やっぱり薄暗い中に明かりが点ると少しほっとしました。

ブレーカーを入れたら、毛布があったら避難所に持参してほしいと防災無線から流れたため、父がうちから一番近い避難所の福田小学校に家にあったりんごと一緒に毛布2枚だけですが持って行きました。
その後、うちではプロパンガスを使用していたため料理をすることができたので、夕食の準備をして食べるものを食べたら落ち着いてきました。
落ち着いてきたといっても、余震が続いていてまた大きな揺れがくるんじゃないか、初めは小さな揺れでもまた徐々に大きくなるんじゃないかと揺れるたびにビクビクしていました。

TVを見られなかったため、今自分たちがどういう状況におかれているのかよく分からなかったのですが、その後、携帯のワンセグでTVが見れるかもと気づいたのは、前回書いたとおりです。
http://mogmogmarusho.blog.fc2.com/blog-entry-34.html
でも、携帯の充電もできないので電池の残量が気になりだして、地震に備えて購入していた『手回し充電式のラジオ兼携帯充電器』で充電しながら見ていました(相当がんばって回さないとなかなか充電されなくて、かなり大変でした…なので、震災後には、携帯電話のソーラー充電器を購入し、毎日太陽光にあてていつでも使えるように充電してます)。
ニュースを見ていて、本当にこれが現実に起こったことなんだと思うと怖くてたまりませんでした。

数分から十数分おきにくる余震におびえながら、今夜は自分の部屋で寝ても大丈夫なのか迷いましたが、他に寝るところもなかったため、部屋で寝ることにしました。
片付けも出来なかったため足の踏み場も無い状態で、部屋の入り口脇に置いていたタンスが倒れてきていて、扉が半分しか開かず、入るのも一苦労しました。
いつ、大きな余震がきても逃げられるように服はきちんと着込んで、枕元にはスニーカーと懐中電灯を置いて寝ることにしました。
布団に入っても、落ち着かなくてなかなか寝付けないかなと思いましたが、気が張っていたのが布団に入って少し落ち着いたからか、それとも、もともと私が図太いからなのか、基本的に寝付きがいい体質だったのかは分かりませんが、すぐに寝入ってしまい朝まできちんと眠れました(以外と図太いから…というのが正解のような)

次回に続く
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東日本大震災 #4

父が避難されてきた方々と海を見ているとき、余震も心配ではありましたが、段々と日も暮れようとしていたため、私と弟は少しずつでも家の中を片付けようとしていました。

家があり無事でいられる私が、津波から避難してきた方たちに掛ける言葉はありませんでした。どんな顔をしたらいいのかも分かりません。
弟とは交わす言葉もなく、ただ二人で黙々と家の中の散乱した物を片付けていました。

しばらくすると、隣の相馬市に出かけていた母が戻ってきました。
母は、避難されてきた方の中に知り合いがいたらしく、その方と話をしていましたが、その方はお子さんを連れてとにかく山のほうに車を走らせたようで、寒いなか二人のお子さん達は上着も着ていませんでした。
それを見て、何か上に羽織るものがあればと思いましたが、部屋の中に探しに行くことができず、寒そうなのに何もできなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

余震が続く中、部屋を片付けて何とか食事が出来るスペースを確保できた時には、もう薄暗くなっていました。
弟が、「明るくなってから配線が切断していないか、少しでも傷ついていないかを全部確認してからでないとブレーカーを戻せない。切断してたら火事になるかもしれないから。」と言うので、暗くなる前に食事の支度をして、停電用にと準備していたロウソクと懐中電灯を何とか探し出し夜に備えました。

TVも見れないため、情報がなく自分たちがどんな状況に置かれているのかまったく分かりませんでした。
携帯のワンセグならTVが見れるかも、そう気付いたのは夜遅くになってからでした。
すぐに気付かなかったのは、かなり混乱していたからだと思います。
福島県といっても、すぐ隣が宮城県の山元町で携帯ワンセグで受信できるのは宮城県の放送のみ。福島県の放送は電波が弱くて受信できませんでした。
また地形の関係で電波が届きにくいようで、見られるチャンネルは限られていましたが、それでも全くなにも情報が無いよりましでした。
その小さい携帯電話の画面からニュースが伝える地震の、それも津波の被害の大きさに言葉を失い振るえが止まりませんでした。
地震の被害のだけでも相当なものだというのは、あの揺れを経験すれば想像もつきますが、まさか津波の被害がこれほど広範囲で甚大なものだとは想像もできませんでした。

次回に続く

東日本大震災 #3

家族全員の無事は確認できたが、まだ心臓がどきどきして落ち着かない。
とにかく情報がほしくて車に入れておいた手回し充電式のラジオを取り出して付けました。
ラジオからは、強い余震がくる可能性があります注意して下さい、津波がくる恐れがあります海岸線の近くにいる方は至急避難して下さいという声が聞こえていたように思いますが、あまり覚えていません。
家の中の片づけをしようかとも思いましたが、余震が数分と置かずにくるため家の中に入ることもできず、ただ家の周りをうろうろすることしかできませんでした。

ラジオを聴きながら玄関前にいると、なぜか何台もの車が家の前の道路を通っていきました。
わが家は新地町を一望できるくらいの高台にあり、海岸からは5Km以上離れています。
りんごの季節の9月~12月以外は、車が通ることも少なく、りんごのシーズンが終わった3月のしかも地震直後にどうしてこんなに車が上ってくるのか、不思議に思っていました。
そのうち家の前の道路には車が列を成して停車していました。

車で上ってきた方の中に両親の知人がおり、その方が役場で津波がくるからとにかく上に逃げろと言っていて、急いで車で上ってきたと言われました(防災無線で流れたようだが、うちではブレーカーを落としていたため聞こえなかった)。
中学生と小学生くらいのお子さんと一緒に車から出てきた別の方も、取るものも取り敢えず車に乗ったとおっしゃっていました。一緒にいた息子さんが、まだ3月も半ばで寒いにもかかわらず学校のジャージを着ているだけで上着も着ていなかったため、どれだけ切羽詰まった状況だったのだろうと、このときラジオから流れていた『津波がくる』という言葉をはっきりと認識しました。

私は見ていませんでしたが、津波から避難してきた方と一緒に町の様子を見ていた父の「津波がきてる。国道(国道6号線)を越えるかもしれない。」この一言に、愕然としました。
(津波が国道を越える?)
(海から国道までどのくらい距離がある?)
そう思いましたが、津波は海岸から1.5Km以上離れた国道6号線を部分的にではありますが越えてしまいました。

跨線橋を残して、駅舎そして線路、列車も流されてしまいました。
画像 004k

You Tubeより
http://youtu.be/Tffpo1SVQZw

次回に続く

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東日本大震災 #2

3月11日

パートの仕事が終わり、家に着いたのが14時を少し過ぎた頃でした。
TVを見ながら部屋で洗濯をする準備をしているときに、TV画面に緊急地震速報の字幕が入り、それから3秒も経たないうちに、新地町で一戸毎に設置してある防災無線から、今まで聞いたことのない大きな音が響き「大地震です」というアナウンスが終わるか終わらないかのうちに、揺れがきました。

初めは感覚的に「震度3~4位かな」と思っていました。
ところが、なかなか揺れがおさまらない。
それどころか、段々揺れが大きくなり、いつもなら地震があってもそれほど騒がない私も怖くなり2階の部屋を出て、1階の玄関近くにあり倒れそうだった本棚を押さえていました。

しかし、何かいつもの地震と違う。
本棚を押さえていた手を離して、玄関入り口まで数歩。そこで家の中を振り返った時にはもう、本棚が倒れていて、家中の物という物が宙を舞っていました。
散乱するものの間を縫うように逃げ惑う猫が目に入りましたが、玄関につかまってみていることしかできませんでした。

私の隣の部屋にいるはずの弟が、まだ部屋から出てこない。
大声で弟に大丈夫!?と声をかけると、「大丈夫」と返事があり、少し揺れが小さくなったときに弟が部屋から出てきて、弟と二人呆然と家の中を眺めながら揺れが収まるのを待ちました。

揺れが収まった後、少し冷静になった弟が、
「とりあえず、ブレーカーを落とそう。阪神淡路大震災のときに、一時停電した後で通電した際に、断線した配線なんかから火災がおきたって。まずはブレーカーだ」
足の踏み場もないところを何とか配電盤まで辿りつき、ブレーカーを落とし、隣町に用事があり出かけている母に連絡を取ろうと電話をかけたが全くつながらない。
そのうち、畑にいた父が戻ってきたため、父の安否は確認できたが、何度かけても母につながらない。

部屋にいるはずの祖母も心配になったが、祖母の部屋までたどりつけそうもなかったため、家の外から部屋を確認したところ、祖母の部屋は箪笥も倒れておらず、祖母はベッドに腰掛けて不安そうにしていた。
大声で「大丈夫だから、そのまま動かないでベッドに座っててね」と声を掛けた。

弟が何度もしつこく母に電話をしていたところ、何とか繋がり家族全員の無事が確認できた。

次回に続く

東日本大震災 #1

平成5年から減農薬に切り替え、翌平成6年からは化学肥料の使用をやめてボカシ肥と農園内での草のサイクル(除草剤を使用せず、草を樹の根元に倒すよう草刈をし、その倒した草が肥料になる)をめざして草生栽培でりんごを育ててきました。
(昭和62年から除草剤の使用をやめました)
環境への影響、畑で作業をする自身への影響、そして何よりわが家のりんごを食べてくださる皆様の健康を願い、農薬の使用をできる限り減らしていこうと20数年。
薬を減らしたために、害虫の被害がでたり、病気が発生したりと毎年何かしらの問題が発生。
それでも農薬に頼る農業に戻ることなく、また、「美味しい」と言っていただけるりんごを作るための土作りをし続けてきました。
父と母、二人が今までどれほど苦労を重ねてきたか、私と弟は一番近くでずっと見てきました。

今年3月11日、予想をはるかに超える大地震・大津波。
そして福島第一原子力発電所における事故が起こりました。

わが家は、福島第一原発から直線で約50km。

20年以上かけて作り上げてきたものを、一瞬で奪われた瞬間でした。

次回に続く
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Author:mogcat
なぜ農業に携わっていない私が!?
農家の娘による
《農作業観察記》

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